第23回校長BLOG

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バランス感覚、または『汝義に過ぎるなかれ』について

 明けましておめでとうございます。
 今年こそ、良い年になってほしい。皆で良い年になるよう力を合わせて努力してまいりましょう。今は極めて厳しい状況であり、『あれかこれか』の発想で思い切った判断をして、最優先すべきこと(生徒の健康と安全)を守るためには多くのことを諦める必要があるでしょう。
 旧約聖書に伝道の書(または「コヘレトの言葉」)というものがあります。エルサレムの王、ダビデの子、ソロモンに託して、紀元前数百年のユダヤ世界の一つの世界観を示したものです。大宗教の経典?でありながら内容は我々にとってとても興味深く、現代的でさえあります。世界は全て『空の空』であると無常観を訴えた(般若心経やルバイヤート、平家物語と何が同じで何が違うのか?)かと思うと、『あなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮らすが良い』(無常観を基盤としたからこそのマイホーム主義?)と記したりしています。
 さて、その伝道の書で最も印象深かったのが、『汝義に過ぎるなかれ』です。表面的に解釈すれば、あまり正義正義と言うなよというわけです。一神教の経典としてはユニークな見解です。もちろん、一般的な解釈としては、自分だけが正しいと思って強く自己主張して他を否定することはよくないというものです。
 現在の厳しいコロナ禍の状況、世界的にも分断が進む状況では、単純に善悪を決めて、自分たちだけが正しく反対するものは全て悪だと断定する方が容易であり自己満足しやすい処し方です。政治的にもその考えを助長するポピュリズムが世界を覆っています。『大衆の反逆』の時代です。
 しかし、この短絡的なポピュリズムは人類にとって良いこととは思えません。理解できないことを言う人は全てフェイクだと決めつけることは、中長期的には誤った政治的決定に結び付くことが多いと思います。大事なのは、自分が間違っているかもしれないと考えて、一方的な偏った決定を避けて、バランスをとることです。かの国でも大統領とは異なる政党をあえて議会で多数にするという発想があるそうです。
 幸い、昨年末になって、やっと少しはポピュリズムとは異なる潮流が見られるようになり、最大のブラックエレファント・地球温暖化への取り組みも強まりそうです。コロナとの戦いも同様に、デマに惑わされず、論理的な思考で中長期的な判断を下し、着実に収束させたいものです。マスクの有効性について専門家の間でさえ異なった考えがあり、ある時間をかけての科学的な検証からやはりマスクをしたほうが良いという結論に至りました。バランス感覚という意味では、意見が定まらない状況では、マスクは有効でありしたほうが良いという考えは仮に間違っていたとしても実害は少ない、であるならばとりあえず結論が定まるまでマスクをしておこう、という態度が有効だったわけで、そういった意味では、日本社会のバランス感覚は正しかったと思います。
 バランス感覚に優れた判断は、えてして軟弱で明確でないように言われますが、それを守りきるためには勇気と忍耐もいるわけです。私自身、明晰で明確なことが好きであり、バランスを失することが多いだけに厳重に注意すべきと考えています。
 バランス感覚に優れた民主的な判断は冗長で危機の際には向かないという意見もあり、現在では、民主主義自体を見直そうという議論さえあります。その問題に利害関係が無くSNS等の誤った情報に踊らされた人の判断も、利害関係者のしっかり考えた人の1票と同じ価値を持つ民主主義は不当だという考えです。ポピュリズムと正反対のようですが、欧米では両者が連携してリベラルな民主主義に対峙することが多いようです。つい最近までの超大国の状況もそうでした。この傾向は、かの国では未だに約半数の国民の支持を得ているようです。
 それに対して、民主主義を修正してバランス感覚に優れた政治・判断のシステムをつくろうという動きもあります。言わば選挙における『バウチャー制度』とも言えるもので、国民一人に同じ点数を配給し、代議員に投票するのではなく個々の政策に点数を投票する。関心のある政策・自分の判断が明確な政策に多くの点数を投票し、関心のない問題・よくわからない問題には投票しないのです。このことにより、選挙人の意向がより細かく政策に反映するとともに、SNS等に煽られての判断が避けられるというわけです。
 バランス感覚をもって、民主主義も欠陥のある改良の余地のあるシステムだと考えることは、むしろ民主主義を深化させることになる。生徒の皆さんは、バランス感覚を磨き、民主主義を不断に改善していくよう市民としての責任を果たしてください。
 今月の1冊、『ビーグル号航海記』、チャールズ・ダーウィン、岩波文庫。ダーウィンは、アインシュタイン、ケインズと並んで20世紀の世界に最も影響を与えた3人だと思っています。他の2人の主著は少なくとも大学レベルの数学や経済学の知識が無ければ理解できませんが、種の起源と並ぶダーウィンの主著は生物好きなら楽しく読めます。種の起源の生まれた根底が分かります。一読を。

第22回校長BLOG

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経済学の役割、またはブラックエレファントへの備えについて

 ここ10年程、私の愛読紙は日本経済新聞(日経)です。デジタルでは日経メディカルも眺めています。経済の目で世界を眺める、経済の目で教育を考えるということは、現在の国際社会では当たり前のことですが、私たち日本の教育界では特殊なことかもしれません。

全員が利己的な動機に基づいて行動すれば社会は自然にうまくいくという古典的な『見えない手』のドグマは、『教育の世界』ではとても受け入れられないことでしょう。また、『最大多数の最大幸福』などという目標も、人間を集団で捉えることなく一人の生徒を大事にするという教育界では異端の考えかもしれません。

しかし、メリットとデメリットで判断する経済的な考え方は、教育を現実的に考えるためには有効なこともあると思います。判断に迷うような課題については、あらゆる面で正しい解答は存在しない。現在の状況下で、未来の状況も考えつつ、比較的メリットの多そうなデメリットの少なそうな選択肢を選ぶしかないでしょう。決断して実行していく過程で、細かに評価して微調整をしていく。その過程を通じて、選んだ選択肢を結果的に最善のものに作り上げていくことこそが大事なことです。結論は、経済学的であるとともに優れて教育的だと思いませんか。

10月30日付の日経を読んで、二つの言葉に目が留まりました。ブラックスワンとブラックエレファントという言葉です。

ブラックスワンという言葉は前にも聴いたことがありました。白い白鳥の中での黒い白鳥(黒鳥?)ということで、確率は低いが当たると大変な損害を与える危険を指す言葉です。少し検討してみましょう。明日の天気予報で、①降水確率10%で降っても降水量は1mm未満の数値に表れない程度の少量という時、多くの人は傘を持っていかないのではないでしょうか。一方、②降水確率60%で降ったら土砂降りと言われたら多くの人は朝雨が降っていなくても傘を持っていくでしょう。③降水確率60%だが降っても降水量はほんの少しというなら降られても被害は小さいので傘を持っていくかの判断は分かれることでしょう。

問題は、④降水確率は10%だが、降ったら大変な豪雨になるという予報にどう対応するかです。これがブラックスワンです。人によって価値観によって判断は分かれるでしょう。この場合は傘を持っていくという少ないコストですから、慎重な人は傘を持っていくという判断になるかと思います。しかし、リスクを避けるために大きなコストがかかるときにはどう考えるべきでしょうか。

ブラックスワンを考えるときの一つの考え方として、下の式(のようなもの)があります。

起こったときの被害×起こる確率>予防策のコスト

こういった状態なら積極的に予防策を講じるべきだというのです。もちろん、それぞれの項目を数値化することは難しいでしょうから簡単に定量的に判断できるものではありません。ただ、こういった発想で考えると問題点が整理されてくると思います。現実の社会では、無制限にコストをかけることはできませんから、自ずからやれること、やるべきことは限定されるはずです。

さて、ブラックエレファントです。これは、起こる可能性が高く起こってしまったら大変な被害が生じることが分かっていながら、対応されていない危機のことです。例えば、地球温暖化への対応です。

現在では、地球温暖化は現実に進行しその影響が現れていること、原因は化石燃料の燃焼等による二酸化炭素をはじめとした温暖化ガスの排出量が増加したことだとわかっています。当然、対策としては、温暖化ガスの排出削減と発生したものの適切な処理ということになります。対策には大きなコストがかかりますが、明らかに『起こったときの被害×起こる確率>>予防策のコスト』です。この状況で対策をとらないことはまさにブラックエレファントを放置することです。

しかし、一部の国では、目先の利害を優先してこのブラックエレファントをあえて見ない、無いものと見做すことがあるようです。特にリスクを回避するために、今までかけてきた資源と努力を無駄にしなければならないケースなどでは、集団でブラックエレファントを無視する傾向が顕著です。ブラックエレファントへの対応には、議論の余地はありません。為すべきことを為すだけです(損切と言います)。判断の問題ではなく、実行力の問題であり勇気の問題です。

生徒の皆さんには、ブラックスワンには賢明に対応し、ブラックエレファントには毅然として対応できるようになってほしいと期待しています。

ということで、今月の1冊、『感染症はぼくらの社会をいかに変えてきたか』、小田中直樹著、日経BP。感染症は社会的な現象であり、同時に社会に大きな影響を与える現象です。この本は感染症と社会の相互作用を歴史的経済学的視点で捉えています。内容はとても分かりやすい。著者の望みと同様、この本が皆さんにとってポストコロナの時代を考えるきっかけとなることを願っています。

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想像力の役割、または『アンという名の少女』について

今日は。さすがに彼岸が過ぎると涼しくなりました。家の野良朝顔(実生、たぶん小鳥の糞から生えた)が今になって元気に咲き誇っています。これから寒くなり乾燥してくると新型コロナウイルス感染症がどうなってくるのかが心配ではあります。
今回はテレビ番組の話から始めます。NHKで日曜日23時からカナダ制作の『アンという名の少女』というドラマをやっています。言わずと知れたカナダの作家ルーシー・モード・モンゴメリの『赤毛のアン』(『Anne of Green Gables』の村岡花子による訳)が原作です。
これがなかなか良かった。原作を生かしつつ現代風の味付けを微妙にしています。カナダのプリンスエドワード島の美しい自然とそこに生きる人々の生活を見事に再現しています。
そして、なんと言っても役者がいい。エイミーベス・マクナルティのアンは、誇り高くおしゃべり好きで想像力に富み明るいが、雀斑と赤毛とやせっぽっちであることを気にしているという既成のアンを演じるだけでなく、今までの辛い環境での体験から心に傷を負っていることを微妙に感じさせる演技が素晴らしい。アンを育てるカスバート兄妹の兄マシュー・カスバートを演じるR・H・トムソンは、内気で無口だが心優しく頑固な老人を好演、マリラに言い負かされて困ったような顔が秀逸です。何よりもマリラ・カスバートを演じるジェラルディン・ジェームズ、自他に厳しく甘い顔を見せてはいけないと思い込んではいるが、実は優しく思いやりの深い老女、厳しい顔を崩さないように意識しているが、時折、暖かい人間性がちらりと見えてしまうといった場面は素晴らしい演技です。
番組を気に入ったので、半世紀以上ぶりに原作が読みたくなりました。同居人が小学生の時に読んだという『赤毛のアン』を貸してもらい読んでみました。気になった「言葉」から感想を書きます。
1 マリラとマシュウの老兄妹のところに、農作業の手伝いのために男の孤児を引き取るはずがまちがって女の子が来てしまい戸惑います。マリラが「おいとけませんね。あの子がわたしらに、何の役にたつというんです?」と言うのに対してマシュウ「わしらのほうであの子に何か役にたつかもしれんよ」
ここでは、人を単なる労働力とみる立場から、想像力を働かせて、仲間、家族としてみて、何かをしてもらうという立場から何をしてあげられるかを考える立場に異化しています。飛躍してしまいますが、次の言葉を思いました。
『Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country. John F. Kennedy 』
2 お菓子作りでまちがって塗薬を混ぜてしまった失敗に対して、アンは
「マリラ、あすがまだ何ひとつ失敗をしない新しい日だと思うとうれしくない」「(わたしのいいところは)同じ間違いを二度と繰り返さないことよ」というのに対して、マリラに「いつも新しいのをしているんじゃ、それはなんのたしにもならないよ」と言われてしまう。マリラの巧まざるユーモアに微笑する場面です。
失敗した内容については反省し二度と繰り返さない。しかし、失敗したこと自体を悔やまず、来るべき未来を楽観的に考える。ビジネス(事業)そして人生に必要なのは、失敗の際の客観的な評価と反省・改善、その上での楽観的な姿勢です。自分にプライドを持ち、頭をあげてことにあたる。前向きに取り組んで結果として失敗したら素直に頭を下げる(日常的に俯いていると、それを下げた時にわかってもらえません)。そして、改善し、新たに計画する。PDCAサイクルまたはカナダにおけるプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の体現、とまで言うのは大げさでしょうか。
3 アンが立派に成長し町の学校に合格して町を離れるときのマシュウのつぶやき
「あの子はわしらにとっては祝福だ。まったくあのスペンサーのおくさんはありがたいまちがいをしでかしてくれたものさ―運が良かったんだな。いやそんなものじゃない、神様のおぼしめしだ。あの子がわしらに入用だってことを神様はごらんになったからだと思うよ。」
1の想像が当たっていたとともに、うれしい違いが生じたのです。あの子の役に立つようにすることが、私たちの幸せにつながった。誰かにあるいは何かに貢献するということは、自分を生かし、自己実現につながる幸せなことだという信念が感じられます。
4 アンが、奨学金の権利を獲得し大学に進もうとするときにマシュウが亡くなり、年取ったマリラだけが残ってしまったときの決意。「あのときはアンは希望と喜びにあふれ、未来はバラ色にかがやいていた。そのときから、何年もたったかのような気がした。
しかしベッドにはいるころにはくちびるにはほほえみがうかび、心は平和になっていた。アンは自分のすべきことを見てとった。これを避けず、勇気を持って、それをむかえて一生の友としようと決心した―義務もそれに力のかぎりぶつかるときには友となるのである。」
アンは大学に行くことをとりあえず諦め、年老い衰えがみえるマリラとともにグリーンゲイブルズで暮らすことを決意します。苦しい選択であっても、現実を客観的にみて、自分の価値観に従い、自分が判断したことなら、前向きに生きていけるのです。アンは自分をかわいそうだなどとは思っていない。彼女の想像力は、与えられた状況の中で一所懸命しかし明るく生きていく自分の姿をとらえていたに違いありません。因みに、アンは後に大学進学も実現させます。
想像力とは、辛い時に明るい未来を思い、その未来に向かって日々の努力をする力のことをいいます。『赤毛のアン』は、人生という事業に対する姿勢の問題を明確に示しています。

ということで、今月の1冊、『赤毛のアン』、L・M・モンゴメリ著、文春文庫他多数。NHKドラマもあと5回ほどあるようです。こちらもお勧めです。