校長BLOG

第20回校長BLOG

2学期始業式あいさつ元原稿または創造的幽閉について

 おはようございます。この夏休みは、皆さんにとっても大変な夏休みだったと思います。
 とりあえず、始業式に元気に登校出来て何よりです。

 こんな夏休みは、皆さんの3倍以上の長さの私の人生でも初めてです。高校に出てくるのと、学校説明会で塾や中学校に出向いて講演をするのと、東京学芸大学の教職大学院で集中講義をする以外は、自宅のある町で燻っていました。休みを取った日は、5kmほど離れた多摩湖という人造湖に走っていき、森を散歩しました。木陰で本を読むと森で冷やされたそよ風がとても気持ち良かった。
 自分の町をほとんど出なかったのに世界を語り、世界を変えた人にケーニヒスベルクのイマヌエル・カントがいます。純粋理性批判をはじめとする批判3部作により後世の哲学に大きな影響を与えた、西洋哲学におけるイノベーターといえます。「我々は何を知りうるか」「我々は何をなしうるか」「我々は何を欲しうるか」という人間学の根本的な問いに対応する三つの批判書「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」を書いたわけです。正直に言います。カントは読みましたが全く分かりませんでした。孔子でもデカルトでも加藤周一でも、誰でもいい加減に読んでも(もちろん現代日本語で)要はこんなことを言っているらしい、という程度は分かるものです。どうやら、カントは私にとって小林秀雄のような存在です。閑話休題。カントの言っていることで、断片的ではあるが頷けたのは次の3つ。
 ①互いに自由を妨げない範囲において、我が自由を拡張すること、これが自由の法則である。
  自分の自由を拡張しなければ生きていく価値がない、他人の自由を妨げれば自由とは言えない。
 ②最も平安な、そして純粋な喜びの一つは、労働をした後の休息である。
  一所懸命働いた(勉強した)後の休息は純粋な喜びであり、同時に働いた後には休息が必須である。
 ③Es ist Gut
  死にゆく最後の言葉とのこと、「これでいいのだ!」大いなる自己満足?
 
 カントは生まれた町を出ずに、世界を見通したようです。自らを物理的には幽閉したが精神は宇宙を天かける。そういえば、太陽系は星雲から生成したなどとも言っているようです。
 出歩かずに自分に沈潜するのも悪くないのかもしれない。先に創造的休暇の話をしましたが、ある意味、創造的幽閉ということもあるのかもしれません。

 要は、出歩けないときには、出歩けないということを理解し、受容し、その中でいかに充実した時を過ごすかということです。自分ではどうすることもできないことはあります。そのできないことに拘泥するのではなく、できることに精神を向け、小さくても確実な成果を収める。その営為の中にこそ、自由があるのだと思います。
 このコロナの時代に高校生であったことを、良き契機としてください。やせ我慢ともいえるその心意気さえあれば、withコロナもそう暗いものではないでしょう。

 今月の一冊、純粋理性批判とは言いません。『魔の山』、トーマス・マン著、新潮文庫 主人公は従兄弟をスイスの結核療養所に見舞うが、自身が結核に感染していることが分かり、7年間療養生活を送ります。その間、個性的な人々と交流し精神的に成長していく物語です。閉塞状況でいかに生きるかというヒントになるかもしれません。