第18回校長BLOG
利己的な遺伝子または新型コロナウイルスについて
みなさん、こんにちは。新型コロナウイルス感染症は未だ収束せず、東京都とその周辺では最大級の警戒が必要な状況です。この感染症も一種の風邪であるなら、高温多湿の夏でさえこの状況では、低温乾燥の秋から冬にかけては相当な予防策を取らねばなりません。そして、緊急事態宣言下で述べたように、効果的なワクチンや抗ウイルス薬の開発・普及がなされるまで、少なくとも1年単位での長期戦を覚悟しておきましょう。逆に言えば、それだけの長期にわたるわけですから、十分な予防策を取りつつ、学習をはじめとした社会生活はできる範囲で前向きに行っていかねばなりません。予防にはルーティンを守ることが大事です。手洗いとマスクの励行、3密を避ける、発熱など風邪症状があったら休んでもよいではなく休まなければならない。自分と周囲の人のために、しっかり守りましょう。
話は変わって、リチャード・ドーキンス(1941~)というイギリスの生物学者がいます。「利己的な遺伝子」という本を書き、進化の担い手は遺伝子であり、遺伝子が自分と同じ遺伝子を増幅させるために進化があるというものです。もちろん、遺伝子に意志などなく、環境への適応の競争の結果そうなるという説明です。生物・個体など遺伝子を運ぶ乗り物(vehicle)に過ぎないという比喩も有名です。
この説は生物学的には異論もあり、彼同様に著名なアメリカの生物学者S・J・グールド(1941~2002)との論争は有名です。しかし、進化の本質が遺伝子にあるという主張は、生物学にとどまらず、世界を知的・論理的に捉えようとする人々に大きな衝撃を与えました。遺伝子を中心に考え、多くの動物が自らの子を守るために自分を犠牲にしたり、社会性のアリやハチが同じ巣の仲間のために自分を犠牲にしたりすること(利他行為)を自らの遺伝子と同様の遺伝子を増殖させる行為と考えると納得しやすいからです。
生物の存在理由は、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」であるなら、利己的な遺伝子という発想は意味深いものであり、生物屋ではない私は、そもそも、生物の本質はこのことにあるのではないかとも妄想してしまいます。
そう考えると、最も端的で面白い「もの」があります。今話題のウイルスです。ウイルスは殻を持った遺伝子そのものと言えます。コロナウイルスは、ヒトなどの生命体に入り込み、さらに宿主の細胞内に自らの遺伝子(RNA、普通の生物の遺伝子はDNAでしたね)を解き放ち、他人の細胞内の物質を使って自らの遺伝子(即ちコロナウイルス)を大量に複製して増えていく。そのために、ヒトは新型コロナウイルス感染症(COVID-19)にかかってしまう。宿主の褌で相撲を取る憎い奴です。しかし、利己的な遺伝子説で考えると、コロナウイルスが宿主に対して致命的であることは有利なこととは思えません。感染した宿主がすぐに死んでしまってはそれでおしまいで、遺伝子はそれ以上増えることができない。戦略的には、水痘(水ぼうそう)ウイルスのように、「やたら感染力が強い割には多くの場合宿主に致命的な影響を与えず、しぶとく体内に残って感染の機会を窺う」方がよいように思えます。即ち、進化論的には、そして長期的(残念ながら1年や2年ではないでしょうが)には、コロナウイルスも感染力はそのままに弱毒化し単なる風邪ウイルスの一種になったほうがよいし、そうなるのではないかと妄想するわけです。
ところで、生物屋さんたちは、ウイルスを生物とは認めていません。他の生物を利用して増殖する「もの」という扱いです。生物の定義として、①外的環境と内部との隔壁があること、即ち細胞膜を持つ細胞があること、②エネルギー変換をする代謝系をもつこと、③自己増殖すること、などがあげられています。ウイルスは細胞も代謝系もないので生物ではないということになってしまいます。しかし、門外漢の私には、①や②は、生物学にとって対象を学問的に限定するためには有効でも、決定的な要因とは思えません。利己的な遺伝子という発想を生かせば、③に特化したウイルスこそ生物の本質そのもの、純粋生物と言えるのではないでしょうか。皆さんはどう考えますか。
ということで、今月の1冊、リチャード・ドーキンス、「利己的な遺伝子」紀伊国屋書店。重要な本ですが、面白く読めます。純粋生物屋さん以外にも、いや「以外の人」が喜ぶ本でしょう。ものの見方が変わります。
では、またこのブログでお目にかかりましょう。お元気でお過ごしください。
第17回校長BLOG
緊急事態宣言解除後の生活、または、パラダイムシフトについて
みなさん、こんにちは。緊急事態宣言はやっと解除されました。しかし、東京都の新規感染者数を見ると、まだまだ安心はできません。今、生活スタイルとして最も重要なのは、感染症の第2波、第3波に備えつつ、言わば、恐る恐る普通の生活に戻していくことです。備えが無ければ、次の波が来た時に悲惨な状況になるでしょうし、そもそも、次の波に備えること自体が次の波を予防することにもなります。緊急事態宣言解除を受け、私たち教員も生徒の皆さんも気を緩めることなく、3密を避ける等の対応をしっかり続けていきましょう。
感染症対応、命と健康を守ることは最重要です。しかし、社会においてはそれだけでは足りない。社会生活を維持することも大事です。難しいのは、その二つのことが相反する事態が多いことです。世界を見渡しても、かなり多くの国と地域が経済的要求から感染症対応を緩和しています。
日本は、そして私たち附属高校は、両側が切り立った断崖のやせ尾根を歩いていくごとく、バランスを取って安全かつ着実に進んでいかねばなりません。
前にも書きましたが、新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、世界の経済に激震を与えました。グローバル化した経済構造はウイルスの世界中への伝播を助け、その対応として国を閉ざすことによりサプライチェーン(物の供給の連鎖)が断裂し製造業が成り立たなくなりました。非製造業でも特に日本では対面での事業を主として来たので大いに困りました。会議も営業もできなくなったからです。学校教育も対面を前提にしてきたので、どうしていいのか悩みました。
しかし、感染症対応と社会生活維持とを両立させるために、いわば「外的要因により強制的に」システムの改革が進みました。製造業では、ベルトコンベヤーでの製造ラインから無人搬送車に未完成の製品を載せそれが自分で工場内の必要な場所に動いて完成させるラインに改造し自動化を進めた工場や、サプライチェーンのトラブルに備え3Dプリンターを活用して消費地に近い場所で生産するシステムが広がっています。会議や営業活動も、技術的には可能だが「決断」ができず進まなかったテレビ会議やオンライン営業が感染症対応で一気に促進されました。学校でも、オンライン授業やテレビ会議が進みました。
テレビ会議等では、相手の感情が読み取れないとか、場の雰囲気がわからないと言った批判がありました。しかし、実際に実行してみると、確かに相手への忖度ができないという欠点がありますが、その反面、合理的な資料に基づいた判断ができる、主題から脱線した議論になりにくいなどの特徴もありました。また、インダストリー4.0(生産現場でデジタル技術を活用して「もの」同士が情報を交換し合って多品種少量生産等を効率的に進める製造システム)やオンライン授業、テレビ会議を進めるために、職場のIT環境が改善され、職員のITスキルが向上するといった効用もあったそうです。
これらの、仕事の場(学校教育も含め)の変化は、働き方の改革にもつながります。感染症対応として普及した在宅勤務やテレビ会議等は、感染症収束後も続きそうです。その結果として既に人事制度を変えつつある企業が複数出てきています。新しい在宅勤務にも対応できる人事制度とは、一言で言えば成果主義です。一時は日本の企業も成果主義を取り入れようとしたのですが、旧来の労働環境・労働慣習と相いれず思ったほどは進みませんでした。しかし、在宅勤務では、労働時間に応じた評価ではなく、成果に応じた評価を取らざるを得ません。職務内容を明確にした上でできるだけ客観的に成果を評価しようとしています。分析、企画、立案といった業務は特に在宅・成果主義の勤務に適応しやすいそうで、富士通では管理職にこの成果主義(ジョブ型というそうです)を導入するとのことです。これにより、他のOECD諸国に後れを取っていた非製造業での生産性の向上が期待できるとのことです。
新型コロナウイルス感染症により、多くの被害が出て、困難な事態も多々あります。少しでも早い収束を心から願っています。しかし、この事態からひたすら逃げることを考えるだけではなく、次にこのような事態がまた出来した時の準備もしておく必要があります。それは新たな感染症だけではなく、戦争や貿易戦争、地震や津波といった自然災害かもしれません。このような事態に対して、社会生活を維持するためには、旧来の社会システムではない新たな社会システムが必要です。よく言われることですが、この新型コロナウイルス感染症という世界的なピンチを人にとってより良い社会システムへの改革のチャンスにしたいものです。以前、ダニエル・デュフォーやアルベール・カミュの「ペスト」を紹介しました。過去のペスト大流行では、それにより社会は大きく変化したそうです。社会構造とそれに伴う価値観・規範の体系などの劇的な変化をパラダイムシフトと呼びます。今は、まさに、世界中がパラダイムシフトの真っ最中だと考えます。変化の時は、若者にとってチャンスの時です。
日経新聞の「池上彰の大岡山通信」によると、アイザック・ニュートンは、ペストによりケンブリッジ大学が休校になり、ふるさとで過ごして、万有引力や微積分のアイデアのきっかけを構想したそうです。こうした時間を創造的休暇と呼ぶそうです。生徒の皆さん、皆さんもコロナ禍で転んでもただでは起きないで、学校での拘束時間が短いことを創造的休暇に転じてください。
今月の1冊、アメリカ合衆国のH・D・ソローの「ザ・リバー」、宝島社。自然文学の作家、代表作は「森の生活」。このザ・リバーも川について淡々と記した随筆集です。このパラダイムシフトの時代に、このような静的な文学を読むのも良いのではないでしょうか。アメリカはもとより世界中の知識人に深い影響を与えています。
では、またこのブログでお目にかかりましょう。お元気でお過ごしください。
第16回校長BLOG
附高生への回答または世界と自分
みなさん、こんにちは。新型コロナウイルス感染症はやっとその勢いを減じ、近々東京でも緊急事態宣言が解除されそうです。ただ、気を緩めると、第二、第三の感染増加がおきかねません。まだしばらくは注意を緩めず、完全な収束を目指しましょう。学校が再開されると当座の事務処理、授業再開の対応が忙しくなり、この週1回の校長ブログも、本来の月1回に戻ることになります。そういう意味では(そういう意味に限れば)少し寂しい気持ちもあります。
今回は嬉しい知らせがありました。私の勧めた本を読んでくれた附高生が質問をしてくれたのです。昔、前任校で、やはり私の勧めたスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を読んで感想を伝えてくれた生徒がいました。その時以来の喜びでした。
以下は、その附高生からの手紙とそれに対する私の回答です。A君に掲載許可は取りました。
3年Aです。
大野先生がお勧めなさっていた,「方法序説」をこの休みの期間中に購入して読みました。
その中でどうしても疑問に思った点があります。
デカルトの三つの格率の第三の格率では,
「運命よりむしろ自分に打ち克つように,世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように」
と書かれています。
京都大学,川崎倫史教授の「デカルトの《仮の道徳》について」という論文を読みながら考えましたが,どうも私にはこの考え方がうまく当てはまりません。
というのも,自分の欲望について,妥協をすることは必ずしも正しいことではないと考えているからです。デカルトは精神的生活の充足を目的として,おそらくこの本を書いていますが,今の時代を生きる上で,それだけを追ってしまっては,物質的な豊かさを得ることができなくなってしまうのでは,と思います。
先生は方法序説を読んで,どのように考えますか?
できれば,大野校長に直接お聞きしたかったのですが,それは可能でしょうか?
回答よろしくお願いします。
校長の大野です。
私が紹介した「方法序説」を読んでくれてありがとう。発信した思いを受け止めてくれた生徒がいるということはとても嬉しい。毎週の校長ブログを続けてきたかいがあったというものです。
さて、君の質問に対して、二つの方向から私の考えを述べようと思います。一つは、現代の状況下で世界と個人を考えること。もう一つは、デカルトの時代と彼の世界において世界と個人を考えること。
第1の視点が、まさに君の言わんとしたことでしょう。現代の、グローバル化、情報化が進むこの世界において、個人と世界の関係は如何にあるべきか。結論を言います。私は、デカルトの意見には反対で、個人は世界に対峙し、個人の世界観と価値観とをもって世界を変えるべく行動すべきだと思います。今の時代は、一時代前(Society4.0)の大量生産の社会と異なり、個人の「思い」や「アイデア」が、それが真に価値のあるものなら、迅速にかつ世界中に容易に広がる時代です。真に価値があるかそうでないかは、荒っぽく言えば「結果論」です。やってみなければわからない。
既存の秩序や世界観を絶対視し、自分を殺して生きることは、自分自身にとって満足できる生き方でないだけではなく、世界にとってもいいことではない。世界が変化し進歩するためには、異分子が必要です。その世界に異を唱え、抵抗する存在があってこそ、その存在への対抗として世界は自らを変えるのです。民主主義・資本主義が、社会主義・共産主義との競争と競合の中で、相手方の社会保障、福祉国家の発想を取り入れ修正資本主義として結果として相手に打ち勝ったようなものです。現代にはダイバーシティの尊重こそ必要なのです。
さらに言えば、現代の社会システムである資本主義は、個人がそれぞれの欲望を満たそうとする「利己的な行動」をその原動力としています。もちろん、他に迷惑をかけたり非合法な手段で欲望を満足させることは資本主義にとってもご法度です。しかし、合法的な範囲で自分の欲求に沿って活動するエネルギーに溢れた個人こそ、シリコンバレーの住人のように現代社会に必須の尖った存在であることは確かです。そこにこそ、資本主義的な進歩があります。少なくとも若いうちは、運命を変えるべく、世界の秩序を自らの欲求に沿って再構築するくらいの意気込みで頑張るのは有意義なことです。
さて、第2の視点です。デカルトが生まれてすぐの1600年にはコペルニクスの地動説を支持したイタリアのジョルダーノ・ブルーノが神への冒涜等の理由で火あぶりの刑にあっています。1633年には同じく地動説を支持したイタリアのガリレオ・ガリレイが異端審問にかかり終身刑を言い渡され、デカルトもあわてて自分の宇宙論の公刊を取りやめます。そして、デカルトがフランスで方法序説を書き上げたのが1637年です。
「運命よりむしろ自分に打ち克つように,世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように」くらいは言いたくもなるでしょう。本音を言っているのです。私はこれは処世術だとも敗北主義だとも思わない。自分の利益のために長い物に巻かれるのは格好悪いことかもしれません。しかし、デカルトの時間・空間(1600年ころの中部・南部ヨーロッパ)においてローマ教会に逆らうことは、正に命にかかわることだったのです。命のためなら、そして他者を大して傷つけることがないなら、自分の考えくらいいくらでも曲げればよい。一人になったときに、「それでも地球はまわる」とでも言えばよいのです。
他者を批判するときには、他者の時空を考慮しなければいけない。自分の立場でのみ物を考え、自分の考え以外の考えを軽視し排する姿勢は危険です。それぞれの時代のそれぞれの世界の人が、それぞれの事情を抱えている。そのことを自覚し、配慮できるのが大人です。
ということで、最初には言及しなかった第3の視点です。そもそも、周囲の世界とは独立して自分というものがあるのか、自分の欲望というものは誤解に過ぎないのではないかという疑問です。デカルトがいうように方法的懐疑が必要です。
自分探しの旅という言葉が流行った時期がありました。今ここにいる自分は本来の自分ではない、今の自分の役割は本来の自分にふさわしいものではない。世界のどこかには、本来の自分をそのまま認めてくれるところ、本来の自分が力を発揮できる場所があるはずだ。自分が変わるのではなく、その場所さえ見つければ、全てはうまくいくという発想です。バブルの時代でもあり、メディアでも主流派となり、多くの若者が職を転々として、そして世界中を渡り歩きました。でも、当然のことですが自分が変わることなく世界が変わるはずがない。結果論として、多くの日本の若者が、本来修行すべき年月を浪費してしまったと私は思います。
自分は世界との関係性の中にこそある。世界に対して有意に働きかけることによって自分が確立していく。有意の働きかけをするためには力がいる。運命を呪ったり、自分の至らなさを周りの環境のせいにすることなく、自分を鍛え変えていく。そういった営為の中にこそ世界を変える契機があると考えます。第3の視点の結論は、私が常日頃言っている老人の繰り言です。青年老い易く、学成り難し。附高生よ、勉強するのは、今、です。
では、またこのブログでお目にかかりましょう。お元気でお過ごしください。